明日放送

2007年10月30日




前回アップした赤犬子。明日、いつもお世話になっているRBCiラジオで取り上げてくれることになりました。
放送時間は12時頃。「山城智二の昼ワク!」という番組です。
歌・三味弦の始祖「赤犬子」が、山城智二さんのトークでどのように紹介されるのか楽しみです。
今日は、泡盛がうまい。  

Posted by 長田社長 at 21:56Comments(0)TrackBack(0)社長の一言

美人の産地

2007年10月30日




沖縄本島北部にある「今帰仁(なきじん)城跡」の大庭(うふなー)には、「志慶真乙樽(しけまおとだる)」の歌碑が建立されている。志慶真乙樽は、絶世の美女であったと伝えられていて、「今帰仁御神(なきじんうかみ)」の由来の人物である。
沖縄で「今帰仁御神」とは美人の代名詞のようなもので、目鼻立ちスッキリの美しい女性の総称である。
ところで、その今帰仁村には、目が大きくて肌の色が浅黒い情熱的な沖縄美人とは異なる、色白の大和美人型の女性がなぜか多く見受けられるのである。
それは、平安時代の武将・源為朝が今帰仁の運天へ漂着したように、戦国時代などにも敗れた武士などが今帰仁へ逃げ延びたことにより、その血を受け継ぐ、いわば沖縄人と大和人との混血による系統の人たちが多いのではないのかと言われているが定かではない。
志慶真乙樽は「おもろ」にも詠われるほどの美女で、北山王の側室であったといわれているのだが伝説上の人物である。しかし、現在、今帰仁村に美人が多いのは事実である。
きっと、今帰仁村は美人の産地に間違いない……!!
そういえば、那覇のグルクンさんとこの巷のヨーコさんも、確か今帰仁村出身だったなー……???  

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昇天した赤犬子

2007年10月27日

放浪詩人「赤犬子」の最期は、出生地の読谷間切に隣接する恩納間切での出来事が切っ掛けであった。
夏の炎天下——。彼は、恩納間切瀬良垣村にいた。
海岸に小屋を建てて、舟を剥いでいる舟大工たちに「一口だけ、水を飲ませてはくれないものか」と頼んだ。ところが、すげなく断られてしまった。腹を立てた赤犬子は「水舟」と一言だけ言って、その場を立ち去った。
すると、またしても不思議なことが起った。それからというもの、瀬良垣の舟大工たちの剥いだ舟が、ことごとく難破してしまったのである。
舟大工たちは、赤犬子のせいにした。
「水舟と、悪口を言ったからだ」
「きっと、海の神が怒ったんだ。赤犬子を殺さねば、神の怒りはおさまらないぞ」
舟大工たちは口々にそう叫び、赤犬子を殺すために彼の住処へ押し寄せた。とうとう追いつめられた赤犬子は杖を立て、みずからが神となって三味弦を手にして昇天した。

  歌と三味弦(さんしん)の昔始(むかしはじ)まりや
   犬子音(いんこね)あがれの 神の御作(みさく)

赤犬子ゆかりの地、読谷村楚辺の赤犬子宮の境内にある「赤犬子終焉の地」の碑には、そのような「おもろ」が刻まれている。


  

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赤犬子(種まかぬ日)

2007年10月26日

日も西の山裾へ沈み、すっかり夕張が辺りを包み込んでいた。赤犬子は、浦添間切仲間村にさしかかっていた。
トントン、トントン——
「旅の途中の者です。一晩だけの宿を貸してくだされ」
赤犬子は、一軒の農家の戸を叩いてお願いした。
ところが、戸は閉め切られたままで、家の中からはすげない返事が返ってきた。
「種取(たんとぅ)い日に、よそ者に宿を貸すことはならん」
昔からこの村では、干支の子丑の日に、種まきの行事を行っていた。そして、その日によそ者を家に入れてはならないことになっていた。
「家へ入れてくれとは言わない、納屋でかまわない。いやいや、軒先でもいいので一晩だけ泊めてくだされ」
「ならん!! 帰れ」
村中の家の戸を叩いてお願いするのだけれど、返ってくる返事はみな同じであった。
赤犬子は、ほとほに困り果てた。そして、このような風習が無くなればよいのにと思った。
「この村で、子丑の日に種をまいたら鳥に喰わせよう……」
赤犬子は、呪文のような言葉を残して足早に村を立ち去った。
さて、それからというものこの村では不思議なことが起った。子丑の日に種をまくと、どこからともなく無数の鳥が飛んできて、種を喰いつくしてしまうのであった。いくら追い払っても、追い払っても、どこからか飛んできては種を一粒も残さず喰い尽くしてしまうのであった。
困り果てた村びとたちは、とうとう子丑の日に種をまくことをやめた。そして、その日をいつしか誰からともなく、「種まかぬ日」と呼ぶようになった。  

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赤犬子(不思議な力)

2007年10月25日

りっぱな若者に成長した赤犬子は、クバの葉の柄を棹(さお)に、幹を枠(わく)にして馬の尾を弦にした三味弦(さんしん)という楽器を作り琉球国中の島々・村々を旅してまわった。
もって生まれた美声と、三味弦の音色でいろいろな「おもろ」を即興で歌い聞かせて、行く先々で人々を感動させた。しかも、そのような赤犬子には不思議な力が備わっていたのである。と、いうのも、まるでこれから起る出来事を予言するかのような「おもろ」を歌うのであった。
あの時もそうだった——。中城間切安谷屋村を、赤犬子は通りかかっていた。激しい咽の渇きと旅の疲れで、木陰にへたり込んでしまった。
ちょう度、その時であった。モッコに、山積みのみずみずしい蕪(かぶ)を担ぎ、家路をたどる童子が現れた。赤犬子は「この蕪を、一つ分けてはくれないか」と、童子を呼び止めてお願いした。
「このような物でよろしければ、いくらでもどうぞ」童子は、モッコを肩から下ろし、蕪を手に取って皮をむき、さらに食べやすいようにと鎌で四つに裂いて赤犬子に差し出した。このような気配りのできる童子は、これまで見たこともない。赤犬子は深々と頭を下げて感謝し、白くてみずみずしい蕪で咽を潤した。
「ところで、そなたの名は何ともうす」。「はい、マツーといいます」。「マツー、マツ……、安谷屋の若松……」。赤犬子はそう言うと、おもろを歌い出した。

  安谷屋の若松 あわれ若松
   世だ幸へ 浦おそう若松

(訳) 安谷屋村の若松よ 心ゆかしき若松よ
   やがて枝栄え のちには浦を覆う大木になるだろう。

マツーという心優しき童子が成長し、やがて世に名を馳せる立派な人物となるであろうという予言のような歌であった。
後に、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)によって創作された組踊り「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」の主人公・中城若松は、この赤犬子が歌ったおもろが材となったといわれている。  

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赤犬子(出生の秘密)

2007年10月24日



           写真は、読谷村楚辺に建立されている「赤犬子宮」

第二尚氏王統三代目の国王「尚真王」の時代に、三味弦(さんしん)を肩に、琉球国の島々各地を謡ながら旅して歩く若者がいた。「赤犬子(あかいんこ)」である。彼は、読谷間切楚辺のアカヌク原で生まれたのだが、赤犬子という名前の通り、母親と赤犬がつがってできた子であると噂された。

赤犬子の母親は、村でも評判の美しい娘だった。娘の名は「屋嘉チラー」。チラーには、いいなずけの若者がいた。それは「大屋のカマー」だった。村の男達は、チラーの愛をひとりじめにするカマーを羨み、そして嫉妬に狂った。やがては恐ろしいことに、カマーの殺害をくわだてた。
海岸沿いの断崖絶壁の崖の上にカマーを呼び出し、海へ突き落とした——。カマーは、海の底から二度と浮かび上がってこなかった。
ところがその時、チラーは身重だった。
いいなずけを殺害されたチラーは悲しみに暮れ、淋しさから赤毛の犬を可愛がった。
やがて、元気な男の子が生まれた。すると、村びとは陰口をたたいた。
「あれはきっと、赤犬の子だ!!」「そうだ、絶対そうに決まっている。赤犬子だ!!」
世間のそのような心無い噂と視線に、チラーは嘆き悲しみ、とうとう男の子を残してみずから命を絶ってしまった。  

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吉屋チルー(4)

2007年10月22日





  島(しま)んとぅなどぅなとぅ くばんそよそよとぅ
    繋(ちな)じある牛(うし)ぬ 鳴(な)ちゅらとぅみば

(訳) 島も静まり返り、物音ひとつもない。くばの葉も、そよそよと吹く風にかすかにそよぐだけ。繋がれた牛が、あまりの淋しさにたえかねて、今にも泣き出すのではと思うとたまらないよ。

あまりにも淋しすぎる静寂の世界です。
島とは、チルーの故里のこと。遊廓に生きる女性にとって、故里はたったひとつの心のよりどころ。しかし、チルーにとっては、それさえもただ淋しくて悲しいだけの哀愁にしかすぎないのです。
チルーにとって、八歳で遊廓へ身売りされるまで暮らしていた故里は、貧しいながらも優しい両親の愛情に育まれながら小川や浜辺で楽しく遊んでいた少女の頃。しかし、今となってはその故里の思いも、ただ淋しくゆっくりと時間だけが過ぎ去って行く孤独で悲しいだけのものでしかないのです。
チルーは、恋愛もしました。身分の違いでけっして結ばれるはずのない恋でしたが、お互いに相思相愛の純真な愛でした。しかし、そのような純愛さえも金に物を言わせたチルーの買い主に引き裂かれ、さらには病持ちの男の遊び相手にされました。嘆き悲しんだチルーは、ついに十八歳でみずからのの生涯を絶ってしまいました。
そのような吉屋チルーは1650年〜60年代、尚質王の時代に生きた実在の人物である。


  

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吉屋チルー(3)

2007年10月18日




実るはずのない恋とは知りながらも、彼と会う約束の夜を楽しみにしていたナビー。ところが、夜のしじまは深まり、月が山の端にかかっても、彼の姿はみえません。

 たぬむ夜(ゆ)やふきてぃ 訪(うとぅ)じりん無(ね)らん
   一人(ふぃちゅい)山(やま)ぬ端(は)ぬ 月(ちち)に向(ん)かてぃ

(訳) 会える約束をして頼みにしている夜はふけて行くが、来るはずの人はおとずれる様子もない。山の端にかかる月に向って、一人さびしく待ちわびている。

淡い月光に濡れながら、来るはずのない彼を待ち続けるチルー。チルーの悲しみと、清楚な姿があでやかに浮かんで見えます。  

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吉屋チルー(2)

2007年10月17日




遊女となったチルーは、仲島でのいいようのない孤独な生活を送りながら深く悲しみ、故里にいる両親への不満を歌にして詠んでいた。

 あんま主(しゅぅ)やゆかてぃ 生(う)まり島(じま)いめい
  我身(わみ)や仲島(なかじま)ぬ 塵(あら)ぬ一粒(ちゅちぶ)

(訳) 父と母は幸せなことよ、生まれ島にいらっしゃるから。
   私は仲島の遊女として、一粒のゴミのようにそまつにされているのに。

チルーにも、やがて好きな男の人ができた。ところが、相手は身分の高い里之子(さとぅぬし)、自分の身は自分であっても自分ではない遊女。とうていかなわぬ恋である。

 及(うゆ)ばらんとぅみば 思(うむ)い増(ま)す鏡(かがみ)
  影(かじ)やちん映(うっ)ち 拝(うが)みぶしゃぬ

(訳) 身分の違いで、とうてい及ばない恋ではあるが、思いは増すばかりで胸がしめつけられる。せめて、あの人の面影だけでも鏡に映して拝みたいものである。

 風(かじ)ままに廻(みぐ)る 風車心(かじまやぁぐくる)
  我(わ)がままになさな 里(さとぅ)がう心(ちむ)

(訳) 風の吹くままにグルグル廻る風車。ちょどそのように、私の好きなあの人の心も、私の思うままにしたい。

チルーは、風車が風によってゆっくり廻ったり、激しく廻ったりと自由自在に動かされるのを見て、自分も風のように愛する人の心をグルグルと自分の思うままに動かしたいと詠うのであった。  

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吉屋チルー(1)

2007年10月16日

自由放慢で大自然をも相手に、大胆に明るい歌を詠んだ情熱の女流歌人・恩納ナビー。かたや、ナビーと同じ農家の娘として生まれたのだか、まったくナビーとは正反対な人生を強いられた女性がいた。悲劇の女流歌人・吉屋(よしや)チルーである。
チルーは貧しい農家に生まれ、八歳の時に那覇・仲島の遊廓に身売りされることになった。
わずかに八歳の娘が那覇の遊廓へ連れて行かれる時、読谷村の比謝川に架けられている橋を見て詠った。
 
 恨(うらむ)む比謝橋(ひじゃばし)や 我(わ)ぬ渡(わた)さとぅ思(うむ)てぃ
          情(なさき)無(ねん)人(ふっとぅ)ぬ 架(か)きてぃうちゃら

(訳) この恨めしい比謝橋は、私を渡すために
     情けの無い人が 架けておいたのか。


  

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恩納ナビー(4)

2007年10月15日

月日は流れた——。
ナビーは、村一番の働き者の若者と結婚し、幸せな日々を送っていた。
その頃、村では「番上(ばんぬぶ)い」といって、将来を有望視された優秀な若者たちが首里の地頭大名家へ奉公へ出かけなければならない制度が合った。そして、そのような機会に恵まれることは願ってもないことであり、親戚縁者にとっても大きな誇りであった。
そんなある日、ナビーの夫に声が掛かった。それは出世への道であり、ナビーにとっても喜ばしいことであった。
ところが、やがて首里への旅立ちの日が近づくにつれ、ナビーの思いは嬉しい気持ちとは裏腹な歌となって表れた。

  明日(あちゃ)からぬ明後日(あさてぃ) 里(さとぅ)が番上(ばんぬぶ)い
    谷茶(たんちゃ)越(く)す雨(あみ)ぬ 降(ふ)らなやしが

(訳) 明日から数えて二日後に、夫は番上いで首里へ行く日。その日は、谷茶村を越すほどの大雨が降ればいいのに。

ナビーは、愛する夫とかたときも離れたくなかった。番上いへ旅立つその日は、谷茶村が沈むほどの大雨が降ればいいのに。そうなれば、旅立ちの日が伸び、何日間かは、夫と一緒にいられるのに……。
夫を愛する、優しい女心を詠いあげるのであった。

今でも恩納集落へ一歩足を踏み入れれは、ナビー生誕の地や万座毛までの道すがらいたるところにナビーの気配が感じとれる。そこの石積の垣根を曲がると、手ぬぐいを姉さんかぶりにして、小脇にはイモの入った籠(ばーき)をかかえて明るい笑顔で手を振る恩納ナビーの姿が見えるのである。


写真は、恩納ナビー生誕の地。

ところがナビーは、いったい誰の子として生まれたのか?兄弟はいたのだろうか?誰と結婚したのだろう?子どもは生んだのだろうか?その生い立ちや活躍した年代などについては、不明瞭なのである。
そのため、彼女は実在した人物ではなく、民衆が作り上げた伝説上の人物であったのだろうと言われている。
  

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恩納ナビー(3)

2007年10月13日

天真爛漫で屈託のないナビーにも、やがて好きな人ができた。「恩納松金(うんなまつがね)」である。松金は、首里王府から恩納番所へ派遣されてきた役人の息子で、その役人が寄宿していた「シナビ家」の娘と結ばれて生まれた子であった。
そして、今や松金は立派な若者に成長し、村娘たち誰もの憧れの的だった。ところが、松金はいつしかナビーに心奪われていた。二人は人目を忍び、万座毛で夜がふけるまで語り合った。
ところが、ナビーにとっては、いつかはこうなることだと始めからわかっていた日がついにやってきた。別れの日である。
恩納番所での松金の父親の役目が終わり、父親の故里である金武間切へ引き揚げて行ってしまったのだ。傷心したナビーは、村を隔てる恩納岳を見つめ、松金のもとへ届けとばかりに燃え上がる彼への情熱を詠いあげた。

  恩納岳(うんなだき)あがた 里(さとぅ)が生(う)まり島(じま)
    岳(むい)ん押(う)し退(ぬ)きてぃ くがたなさな

(訳) 恩納岳の向こうが 恋人の生まれ住んでいる村
        山を押し退けて こちらに引き寄せたい

激しく燃えたぎる愛は、目の前に広がる雄大な大自然をも圧倒し、恩納岳を突き動かして恋人の松金が住む村を無限の力で自分のもとへ引き寄せたいと詠うのであった。



さらには、恋人をひと目だけでも見たいという思いは、いっきに恩納岳の頂上までもナビーの魂を駆け登らせ、山の上から眼下に広がる恩納番所前の見事な松の木の枝振りを、恋人の松金の姿に置き換えて、思いのたけを詠いあげるのだった。

  恩納岳登(うんなだきぬぶ)てぃ うしくだし見(み)りば
    恩納松金(うんなまちがに)が 手振(てぃぶり)り美(ちゅ)らさ

(訳) 恩納岳に登って、遥かに見下ろせば
     恋人の恩納松金が 手を振る姿が美しい


  

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恩納ナビー(2)

2007年10月11日

1732年に「御教条(ごきょうじょう)」が発布された。御教条とは、国民に儒教倫理の徳育教育を教えるための教書で、時の三司官「蔡温(さいおん)」が執筆し、国法、生活規範、道義、習俗、冠婚葬祭などを規定したものであった。国王の尚敬王も、蔡温には全信頼をおいていた。
  
  褒(ふ)まり叱(すし)らりや 世(ゆ)ぬ中ぬ習い
    噂(さた)ん無者(ねむん)ぬ 何(ぬ)役立つが

(訳) 褒められたり、叱られたりするのは、世の中の教えである。陰口の一つも無い者が、何の役に立つものか。

蔡温は、このような歌を詠った。何事にも積極的な、いかにも彼らしい歌である。
さて、御教条の発布に伴い各村々の番所には、これまでの農村の人々の生活習慣を取り締まる数々の禁止事項の書かれた掲示板が立てられた。


その禁止事項の中には、「毛遊び(もーあしび)」も規制されていた。ナビーは、そのような掲示板を見て、高潔豊穣に詠った。

  恩納松下(うんなまちしちゃ)に 禁止(ちぢ)ぬ碑(ふぃ)ぬ立ちゆし
    恋忍(くいしぬぶ)ぶまでぃぬ 禁止やねさめ

(訳) 恩納番所前の松の木の下に、いろいろな禁止事項の書かれた掲示板が立てられたけれど、まさか、恋をしていいけないという禁止まではないでしょう。

自由放慢で屈託のないナビーの前には、封建的な規制など通じなかったのである。読み書きなどできるはずのない田舎娘は、張り出された掲示板を見ただけで、とっさに庶民の自由を奪おうとする規制の矛盾さを感じ取っていたのである。  

Posted by 長田社長 at 13:52Comments(0)TrackBack(0)沖縄歴史散歩

恩納ナビー(1)

2007年10月06日



第二尚氏王統十三代目の国王「尚敬王(しょうけいおう)」は、天下太平の世の中を津々浦々と漫遊していた。恩納間切の役人たちは、国王を名護浦湾や本部半島、さらには伊江島タッチュ−など山原の島々が一望できる風光明美な「毛(野原のこと)」へ案内した。
「おぉー、これは絶景じゃ!!」大海原に突き出した断崖絶壁の毛(もー)の上に立ち、尚敬王は大いに喜んだ。そして、国王を一目だけでも見ようと集まり、そこに平伏した多くの村人たちを前にして言った。
「この地は、万人を座らせるのに足りる。この地を万座毛(まんざもー)」と名付けよう。
ところが、その日はあいにくの天気で波は高鳴り、風も吹き荒れていた。村人たちは、空も晴れ渡り、波穏やかな美しい村自慢の絶景を国王には是非見てほしかったと誰もが思っていた。
 そのような時だった。村人たちの中から、まるで水平線の波の彼方までも届いたのではないかと思える程の透き通った、艶やかな乙女の歌声が響いた。

  波ぬ声(くぃー)ん止(とぅ)まり 風ぬ声ん止まり
    首里天加那志(しゅいてぃんがなし) 美御機(みうんち)拝(う)がま

 (訳) 波の音よ静まれ 風の音も静まれ 何の物音もしない静寂な時の中で 国王様を拝みたいものよ。

それは、農家の娘、マッコ−屋の「ナビー」の歌声だった。









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勢理客祝女

2007年10月05日



上の写真は、「勢理客祝女殿内」。
「勢理客祝女(じっちゃくノロ)」と大和の軍勢を詠った、次ぎのような「おもろ」がある。
  
  勢理客のろの あけしののろの
  雨ぐれ 降ろちへ 鎧 濡らちへ
  又 運天 着けて 小湾 着けて
  又 嘉津宇嶽(かつうだけ) 下がる
  雨ぐれ 降ろちへ 鎧 濡らしちへ
  又 大和の軍(いくさ) 山城(やしろ)の軍(いくさ)

 (訳)
  鎧武者の一隊が運天の浜に上陸した。
  勝宇岳の上には、暗雲が横たわっている。
  勢理客ノロが、その雨雲を呼び降ろして武者たちの鎧を濡らした。
  聞けば、大和の山城は、今や戦のたけなわである。

「勢理客祝女(じっちゃくノロ)」は、うら若き美しい乙女であった。
ある夜、夢を見た。大和の武将が家来を引き連れて、自分の家へ訪ねて来るという夢だった。不思議なことに、彼女の父親と母親も同じ日に同じ夢を見ていた。
それから数日後のことであった。「勢理客祝女」が裏山で薪を拾っていると、琉球の人とは容姿の違う見知らぬ人たちがやってきた。それは、夢の中に現れた人たちであった。その中のひとりに、源為朝がいた。
源為朝と勢理客祝女は一目でひかれ合い、やがて結ばれて男の子が生まれた。
男の子は「大舜(たいしゅん)」と名付けられ、成長するにつれ知力、体力に優れ、人々の為に働いた。
その頃の琉球国は、天孫氏が利勇に滅ぼされた激変の時代で、北山も活気が無く滅亡の危機にあった。
そんな時に、大舜は、衰退しきった今帰仁城の復興のために、衆人から推挙されて城主になった。いわゆる、中北山時代の始祖になったと伝えられている。


写真は、「勢理客祝女の火の神」。ここが一般的に行われている「今帰仁上い」の最終聖地となる。










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ティラガマ

2007年10月04日



写真は、今帰仁村にある風光明美な運天港である。
そこには、平安時代の武将「源為朝」が漂着し、運天森の丘陵上の洞くつに住んでいたという伝説がつたわる。


その丘陵には、源為朝上陸の碑も建てられている。
為朝が住んでいたと伝わる洞くつは「ティラガマ」と呼ばれている洞くつ拝所である。



伝説によれば、為朝は、大里按司の妹との間に男の子をもうけている。その子は「孫敦(そんとん)」と称し、1180年には浦添按司に推挙された。
「孫敦」は、琉球国開闢以来25代続いたとされる伝説上の最初の王統「天孫氏王統」を滅ぼした悪臣「利勇(りゆう)」を討ち、1187年には歴史上に残る人臣として初めての国王「舜天王(しゅんてん)」となる。
そのようなことから「今帰仁上い」は、「為朝上陸の碑」や「ティラガマ」も巡拝するようになった。
「ティラガマ」には、為朝の指の痕といわれている手形も残されている。


  

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百按司墓

2007年10月03日

今帰仁村運天港の北東の崖の巌陰に、人目を避けるように造られた古墓がある。円形に石垣を積み上げて塗り固めた「百按司墓(むむじゃなばか)」である。


「百按司墓」の「百」は、諸々という意味である。それからすれば「百按司墓」とは、諸々の按司を合祀している墓ということになるのだろうか。
言い伝えによれば、薩摩軍の琉球進攻の際の戦没者の遺骨を合祀した墓とか、第一尚氏王朝最後の国王「尚徳王」の遺臣たちを葬った墓とも、また、北山王統の墓ともいわれている。かつては、墳墓内に無数の白骨が重なり合っていたという。


いずれにせよ、王国時代の按司以上の身分の人たちを葬った古墓であろうといわれている。  

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大北墓

2007年10月01日

今帰仁村、運天港の西側の崖下に「大北墓(ううにしばか)」がある。第二尚氏時代の北山監守の一族を祀った墓で、「按司墓」ともよばれている。


葬られているのは、第二尚氏時代の初代北山監守「尚韶威(しょうしょうい)」を始祖とする七代までの子孫、一族である。
しかし、「尚真王」の第三子である「尚韶威」は、大北墓ではなく王家の墓陵である首里の「玉陵(たまうどぅん)」に、三代目の「尚宗真」は「津屋口墓」に葬られている。  

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